42年に渡る旅が終わったことに感激

ネタバレ戒厳令が敷かれたエピソード9だが、そろそろ話題にしてもいいだろうか?(笑)

エピソード9に関しては毀誉褒貶いろいろあるだろうが、まずは42年に渡る物語が完結まで辿り着いたことをことほぎたい。

私は、全作公開時に映画館で見ているが、9歳でエピソード4を観た私に『おまえは41年後に、この映画の完結を見るのだぞ』と教えてやりたい。

私は長い物語が好きなのだが、小説のグイン・サーガは30年を経て130巻で著者の栗本薫が死んでしまうし、ファイブスターストーリーズは33年を経てまだわずか15巻までしか発行されていない。大作映画が9作に渡って、42年間に渡って同じ世界観の中において製作されるなんて奇跡のようなことだと思う。

それだけでも、本当に嬉しい。

(以下、多少のネタバレを含みます)

素晴らしきB級映画、それがスターウォーズ

私がスターウォーズについてどう思っているかは、2年前にこちらに書いた。

そして、私は2年死ぬことがなく、『スターウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』を観ることができたのだ。こんなうれしいことはない。以上。

……で終わっては記事にならないので、本作についてもう少し語ろう。以前の8作について、私がどう思っているかは上記記事にあるので省略する。

エピソード9をめぐるさまざまな制約

新たな世界観を構築することに成功したオリジナル・トリロジー(旧三部作・エピソード4〜6)に対して、大コケした始まったプリクエル・トリロジー(新三部作・エピソード1〜3)は、大いに軌道を修正しつつ、エピソード4のスタートに辿り着かねばならなかった。そして、悲劇が起こり、アナキンはダースベーダーになり、パドメは死なねばならなかった。プリクエル・トリロジーは悲劇として幕を閉じなければならなかったのだ。

対して、シークエル・トリロジー(続三部作・エピソード7〜9)は、無限の可能性を持つが、基本的には旧三部作のあとを引き継ぐので、一度倒された帝国が復活し、強大になり、再びジェダイが立ち向かい、それを打ち負かし、宇宙に永遠の平和をもたらして終わらねばならなかった。

音楽でいえば、クレッシェンドしていき、フォルテッシモで終わった旧三部作のあと、最後の三作はピアニッシモで始まり、どんどんクレッシェンドしていき、フォルテッシシモの大音響、大感動で終わることを宿命づけられていた。

しかも、旧三部作のレジェンド、ハン・ソロ、ルーク・スカイウォーカー、レイア・オーガナは登場するけれど、現実の42年のという歳月の流れの重みにより年老いており、劇中の世界でも徐々に舞台を降りていかねばならなかった。

そのために、レイ、フィン、カイロ・レンという新世代のヒーローが設定された。私見としては、キャラクターの作り込みの不足か、役者の力不足か、これらのキャラクターがとても魅力的な存在になったとは思わない。ネットでも「レイがたまらん!」「フィンカッコいい!」みたいな話は聞かない。唯一、悩みつつ成長し、最後に正義のジェダイとして果てるカイロ・レンの強さにカッコ良さはあるのは救いだが。結局のところ、レイはともかくフィンに見せ場はなかったし、ポリコレに配慮し過ぎた配役は失敗だったのではないかな……と思っている。

嬉しかったこと、残念だったこと

旧作ファンとしては、過去のヒーロー達の去り際も気になるところだが、カイロ・レンに刺されて死ぬハン・ソロの死に様はあまり納得のいくところではないだろう。メッセージを送って世を去るレイアはまぁ、仕方のないところ。唯一、AT-M6の大軍の集中砲火を浴びたところからゆらりと現れ、カイロ・レンとの大立ち回りを見せてくれたルークは心躍ったといえるだろう。

本作に問われるのは、再び復活した帝国をジェダイの末裔はどうやって倒すのか? ルーク(とレイア)のみとなったジェダイの血脈はどうやって後世に残るのか? 前作の帝国の大軍団以上にどうやって最後の盛り上がりを作るのか? 前作で『血族主義』を否定したあと、どうやって『フォースの力』の民主化を描いていくのか? などあまりにも課せられた課題は多かった。


スターデストロイヤーの大部隊(最後までウドの大木だったが)、パルパティーンの復活(けっきょくアナキン=ダースベータの苦労はなんだったのかという気はするが)で話は盛り上がったのでそれは良しとすべきだろう。

ランドが呼んでくる民間船の友軍は、ギリギリで崖の上に現れる西部劇の騎兵隊であり、ダンケルクの民間船の群れであり、昔から映画ではおなじみの場面だが、それでもやはり感激する。

結局、ジェダイの力の民主化の象徴であるかと思われたレイが、パルパティーンの孫娘だったという設定にはガックリ来たが、最後にレイが『レイ・スカイウォーカー』を名乗ることにより、血族主義問題にケリを付けようとしたように思う。

しかし、EP8でレイが『誰でもないレイ』であり、なんでもない子供たちがフォースの力を使っているラストシーンにより、フォースは血族主義ではなく、誰でも修業を積めば得られるものだ……と表現されたのに、EP9ではその続きが描かれなかったのは残念だった。

多くの人にフォースの力が発現し、最後にその力を合わせてパルパティーンを倒す……ってなストーリーでも良かったと思うのだが、それじゃあまりに日本のアニメっぽいのだろうか?

あなたが見たかったシークエル・トリロジーとは?

と、細部を見れば疑問も、不満もあるが、それでもこの多くの時代を経て、多くの物語を内包してしまった『スターウォーズ』が大団円を迎えたのは喜ばしいと思っている。

我々は42年間かけて、長い、長い物語を楽しんだ。

あとは気楽にスピンオフの外伝を楽しめばいいのである。

……なんとか、エピソード9が面白かったと私は言い切りたいのだが、正直に言おう。私はやっぱり物足りなかった。でも、私の心の中にある肥大化し過ぎた『スターウォーズの完結作』のイメージは実体化不可能なものなのだろう。ないものねだりであることは分かっている。

それにしても、私がシークエル・トリロジーの監督だったら、どんな物語を作ったろうか? っていう楽しみ方は残る。


私なら、やはり多くの人にフォースの力が発現し、クローンとして作られたトルーパー達にもやはりそれぞれの個性が発現し、民間船が戦うとともに、トルーパー達が蜂起し、フォースで誰もが繋がり合って銀河に永遠の平和が訪れるというようなラストを迎え、それらを記録したR2-D2とC-3POが永遠の語り部としてそれらの物語を語っていくというようなストーリーを考えるだろうか?

あなたは、どんな物語を考えるだろうか?