トイストーリーシリーズ、いやピクサーの映画は本当によくできてる。

先週、話の煮詰まっていない『天気の子』を見たから(それは新海誠監督の良さでも悪さでもある)、余計そう思うのかもしれないが、実によく設計されている。

起承転結、往きて帰りし物語。奪われて取り戻す。新しいキャラクターが活躍する分、古くからいるキャラクターの活躍が抑制されていたり。それぞれのキャラクターの立ち位置と、役割は練りに練って検討されており、誰が狂言回しで、誰が観客の視点となるか? なども綿密に設計されている。画面の明るい、暗い。暖色、寒色。止めの画、動きの画。光を柔らかく回すか、スポット光にするか? 焦点深度を深くするか、浅くするか? すべてはその場面の演出として、ちゃんと設計されている。

その実力の深さをとことんまで思い知らされる映画だ。子供は無邪気に楽しめて、大人は深く考えさせられる。なにしろ、『映画を観に行こうよ』と提案し、お金を出すのは親だ。この親を感動させ『子供にも見せてやりたい』と感じさせ、しかも大人も1時間40分の間まったく退屈させず、それぞれの立ち位置で感情移入させる。子供という将を射るために、まず親という馬を射る戦略を完璧に遂行している。じつに素晴らしい。

(以下、多少のネタバレを含みます)

親のノスタルジックマインドを、ググッと轢き出す!

トイ・ストーリー含め、ジョン・ラセターの描く世界には少しレトロ風味がまぶされている。これが、子供を連れてきている大人の心にグサリと刺さる。

カーズのライトニング・マックイーンが、クラッシック風味のキャンディレッドに塗装を変え、ホワイトリボンタイヤに換えたりするのもそうだし、そもそもルート66を舞台にしているのもそう。今回のトイ・ストーリーでもお父さんはレンタカーのキャンピングカーに家族を乗せてカントリーロードを走るが、あれってアメリカのお父さんの共通した憧れのようだ。

また、トイ・ストーリーに登場する、レックスのようなビニールの恐竜、バズ・ライトイヤーのようなプラスチックのトイ、グリーンアーミーメンのような兵隊のフィギュアなどもノスタルジーな気持ちをまさぐるのだろう。多分アメリカのオッサン達、誰もが子供の頃に似たようなオモチャを持っていたのだ。ウッディやジェシーのような布の服を着たオモチャももうちょっと古い世代にはきっと懐かしいはず。

そもそも、ピクサーが『トイ』を主人公にしたのは、第一作が作られた22年前にはCGで人間の顔を不気味さを感じさせないように描写するのが難しかったからなのだが、本作では較べられないほど質感は豊かになり、空気感、光の描写の技術が上がってる。

質感の描写のレベルが異常に上がっているので、ピープの陶器のツヤツヤした感じ、ギャビーギャビーのセルロイドっぽいマットな質感、ダッキー&バニーのいかにも夜店で売ってそうな(今の日本で言うならUFOキャッチャーに入ってそうな)質感が表現できていて、それも雰囲気を高めている。

今や映像の技術の問題関係なく、トイ達が主役を張っていて、我々のノスタルジックな気分を鷲掴みにしてくれるのだ。

誰もが自分の傷口を投影するキャラを見出すはずだ

感情移入のさせ方もすごい。

第1作ではウッディは転校生のように現れたバズ・ライトイヤーに嫉妬し、対抗心をあらわにし、2作目ではコレクターアイテムと評される自分に自信を持ったり、アンディに捨てられるのではないかと不安になる。3作目ではついに大学生になってオモチャで遊ばなくなったアンディとの別離が描かれる。

学校や職場で、誰かに嫉妬心を燃やしたり、不要な人間なのではないかと不安に思ったりすることは、誰にでもあるはずだ。実際に自分の立場がなくなって、何か新しい価値観を見つけて、旅立ったり、何かを諦めて身をかがめて生きたり……と、誰もが戦う自分の内なる感情をウッディは代弁してくれているのだ。

ウッディの周囲のトイたちも多かれ少なかれ、痛みを感じている人たちの代弁者である。

ピープは捨てられた過去を持っているし、ギャビー・ギャビーは誰にも愛されたことがなく病んでいる。ダッキー&バニーも誰かに大事にされたことなく場末の夜店で荒んでいるが、本当は誰かに愛されたいのだ。そんな人って現実にもいるでしょ? 自信たっぷりの発言をするバイクスタンドライダーのデューク・カブーンも実は過去に『全然広告のようなパフォーマンスを発揮しない』と子供に失望されたことにより、自分にまったく能力がないということに気付き、深く傷ついている。

でも、多くの大人だって、子供の頃に夢に描いたような、スターにも、ヒーローにも、社長にも、大臣にもなれていなくて、自分に失望した気持ちを抱えている部分があるはずだ(余談だが、彼の口にする、Yes, We Canada !  はもちろんオバマ元大統領のキャッチフレーズ Yes, We Can ! をもじったもので、ピクサーのあるカリフォルニアの人々が、今でも民主党を支持していることを表しているのだろう)。

そして、本作。ウッディは、新天地であるボニーの家でも、昔のような重要人物と見なされなくなっていることに気がつく。別のドリーという人形が仕切っていて、アンディはリーダーでさえない。これって、子供を連れてきているお父さんが、昔のように会社で重用されなくなっていることに気付いていて、あらためてそれに直面する気持ちを代弁していると言ったら考え過ぎだろうか?

多くのトイたちは人に裏切れられているし、ピープに至っては腕が取れていたりする。フォーキーは幼いようにも見えるが、知能が遅れてるとも取れる。多くの人は何かが欠けていることに寄り添っている。身障者や知能が遅れた子供たちだって、自分に似たキャラクターを見出しているはずだ。

誰もが自分の痛みを投影して、感情移入し、そして明日に向かって立ち上がる勇気を得られる物語として作られているのである。

ホラー風味と、重厚で決定的な、人を勇気づける結末

子供向きだが、レトロなトイ、ギャビー・ギャビーと手下の腹話術人形はちょっとホラー風味。子供たちは怖くないのだろうか? そういえば、前作のゴミ収集車や、保育園のおもちゃ箱、ボスのロッツオ・ハグベア(紫色の熊の縫いぐるみ)もちょっと怖かった。


そのあたり、容赦ない。

そして、やっぱり本作のキモは、最後の結末だ。こればっかりは映画館で見て欲しいと思うが、前述したようなキャラクターに感情移入した人々、すべてを勇気づける結末だと思う。

ピクサーの映画は本当によくできている。