ぜひ音質の良い劇場で

『全編ワンカット』

……という売り文句は誤解を招く。

実際には『全編がワンカット撮影のように見える』である。もちろん、全編を1カットとして撮るというドミノ倒しのような緊張感が問題なのではなく(『カメラを止めるな』はどちらかといえばこちら側)、戦場にいるかのような視点で、1シーンがそれぞれひと続きで撮影され、それぞれのシーンさえ切れ目がないかように物語が進んでいくことが緊張感を高める。

『臨場感』が重要なので、IMAXのような臨場感あるサウンドの映画館で見ることをお勧めする。もちろん、自宅のテレビ画面で見るより、映画館のスクリーンで、集中して見るべき映画だ。

(以下、多少のネタバレを含みます)

いつまでも続く塹壕の超々ロングカット

冒頭から『ひと続きのカット』として展開されることで、この映画は凄まじい臨場感を得ている。

木陰での休息中に呼び出されたスコフィールド上等兵と、ブレイク上等兵は、とてつもなく重要な任務を命じられる。1600名からなる大隊が敵ドイツ軍の罠に落ちようとしている。敵の撤退を追ってデヴォンジャー連隊第2大隊は攻撃を仕掛けようとしているのだが、撤退自体が罠で、その先は用意周到に作られた大規模な陣地なのだ。止めなければ連隊は全滅するだろう。

その部隊には、ブレイク上等兵の兄もいる。『ノーマンズランド』と呼ばれる双方の砲火で砲弾と火薬によって無人地帯になっているエリアを抜けて向かわねばならない。ノーマンズランドは、元の地形を失うほどの爆発痕と、鉄条網、そして危険過ぎて回収できない敵味方両軍の遺体のみが広がる不毛なエリアだ。


命令を受けて、ふたりは延々と続く塹壕を歩いていく。

この上に頭を出したら、いつ打ち抜かれるか分からない。防衛線として、延々と掘られた塹壕には、最前線でほんの一時の休養を取る兵士たちに埋め尽くされている。

寒さと飢えの中、一服のタバコをくゆらす兵士。ライフルを支えにつかの間の睡眠を取る兵士。わずかな食料をむさぼる兵士。上官、若年兵、古参兵……誰もがあたり一面を制圧している死の恐怖に不機嫌になっている。気がつけば、最初の木陰のカットから、カットを切らないまま、この世の地獄のような塹壕の中を延々と歩いている。

映画の手法としてのカットの切り換えがないということは、フレーミングの切り換えもないということだ。ワイド、ロング、寄り、引き……といった映画のレンズの切り換えの手法一切なしに、標準に近い画角のまま延々と映像が続いていく。画角を切り換えずに緊張感を切らず、物語を描いていく工夫には驚かされる。

この間、場面の切り換えは一度もない(おそらくシーンの間、部屋に入る一瞬の暗闇などでカットは切り換えてると思うが)。冒頭の何気ない休養のシーンから、息をする間もなく塹壕に入り、命令を受け、延々と塹壕を歩き続け、そしてノーマンズランドに突込んでいく。

鉄条網、爆発のクレーターによる起伏と、そこに溜まった泥水。人馬の死体があらゆる場所に横たわり、命がその身体から失われてから経った時間に応じた腐敗が死体を泥に混ぜていく。

いつの間にか、観客は第一次西部戦線の底知れぬ地獄に引き込まれていく。

日本人の知らない第一次世界大戦の悲惨

どんな戦争でも、悲惨だ。

しかし、銃の威力が向上し、機関銃、手りゅう弾、爆弾、大砲、戦車、航空機など、ありとあらゆる兵器が出そろい、なおかつ制限の少なかった第一次世界大戦は、兵士にとって、もっとも悲惨な戦争のひとつだったことだろう。

第一次世界大戦に深くは関与しなかった日本人にとって、それは比較的縁遠い戦争だ。しかし、産業革命が実現した機関銃、重砲などによる大量殺戮が完成した戦争であった。主にヨーロッパを舞台になんと1600万以上の人命が失われた戦争なのだ。

ことに、ドイツとフランスを中心とした連合国の間、『西部戦線』での戦いは酸鼻を極めた。森と丘陵地帯、牧草地帯と畑、そしてその間に散らばる村々がこの地方の主な風景だが、その人々が住む地域を舞台に、多数の兵員、戦闘車両、重砲などが動員され、長期にわたる塹壕戦が展開された。畑も農場も、森も街も重砲に破壊され、泥と鉄の破片と鉄条網と取り残された死骸が広がる地獄になった。

『1917』は、その戦争の悲惨さ、息苦しさを、長いカットを繋げることで描き切っている。

木陰の休息から、塹壕に入っての下命。そして、塹壕を延々と歩いてからのノーマンズランドへの侵入。地獄とも思えるエリアを乗り越えて、牧歌的な風景へ。飛行機が墜落してきて新たな暗転。川を越えて狙撃手に追われ、夜の市街地を逃げ回り、段々と映像は現実味を失い、心象風景のようになっていく。

戦争という非現実的な空間で、おそらく日常的な心理状況というのは存在しないのだろう。狙撃手に追われ、銃撃を受け、榴弾の雨をかいくぐり、目的地に向けて走る。

廃虚となった牧場や、廃虚での母子との出会い、森の中でのデヴォンジャー連隊第2大隊の一部との出会い……と一瞬の心和む瞬間はあるが、そのことがその直後の怒濤のような展開により鮮やかなコントラストをつける。

救われぬ結末

スコフィールド上等兵は最終的に目的地に到達し、マッケンジー大佐に攻撃中止命令を伝える。最終的にマッケンジー大佐は攻撃を中止し大被害を免れるが、大佐は『同じことだ』と言う。今週を生き延びても、来週また違う場所に突撃する命令が下されるだけだと。

途中、命を落としたブレイク上等兵の母親に、彼の最後は孤独ではなかったと手紙を書こうと手帳を取り出したスコフィールド上等兵は、手帳に挟まったブレイク上等兵の母親の写真を目にする。その裏には、『Come Back to Me(必ず帰ってきて)』と書かれている。

西部戦線の塹壕の泥沼の中で、機関銃に虫けらのように打ち抜かれ死んでいったすべての兵士たちに母がいて、妻や恋人がいて、息子、娘がいたことだろう。『Come Back to Me』それは数百万、数千万の人たちのかなわなかった悲痛な願いに違いない。