大人の観賞に耐える映画

日本ではステマ騒ぎでそれどころではなくなった感があるが、なかなかの佳作だ。

最近の映画業界は『財布のヒモを握っているのは親』であることに十分配慮するようになっており、内容は十分に大人の観賞に耐える映画になっている。ディズニープリンセスの登場する子供向きアニメだから内容が子供っぽい……ということは最近はなくなっている。

(ちなみに、アナとエルザは公式なディズニープリンセスには含まれていないが、含まれることもある。映画『シュガーラッシュオンライン』では、ディズニープリンセスとして登場していた)。

ちなみに前作の『アナと雪の女王』の時代から劇中でも3年が経っており、エルサは24歳。アナは21歳。前作はエルサが21歳になって王国の責任を担う存在になる場面だったが、今作はアナの戴冠の物語でもあるわけだ。物語設定上の年令だけでなく、『絵』としても、ふたりともたいぶ大人になった感じで描かれる。

映画を大人の観賞にも耐えるということには、米ディズニーの方が意識的なようで、原題は『Frozen 2』とシンプルなものになっている。邦題の『アナと雪の女王2』(以下『アナ雪2』と表記)の方が、だいぶ子供にも分かりやすくなっている。

その影響は予告トレーラーにも現れており、日本語版の方がより分かりやすく子供向きで分かりやすい感じ。

英語版の予告の方が、より主題を正確に捉えていて大人向き。

しかし、内包されているテーマ性の高さが、よりこの映画を大人が考えて観賞するのに相応しいものにしている。

(以下、多少のネタバレを含みます)

エルサの『行きて還りし物語』……だけではない

一般的にはあらすじはこんな感じで語られる。

『謎の声に惹かれたエルサは、魔法の森へ。女王として生きることと、本来の出自について悩み、そして仲間を置いてアートハランという氷の国へ。一方、アナは魔法の森をより深く進み、祖父が起したノーサルドラ人との因縁に対峙する……』

エルサが自らの魔法の力の出自について、未知の世界まで出かけて探求していくことで、大人になっていく……その物語であると説明されていることが多い。。


ただ、この物語はもっと深いメッセージを内包しているように思う。

そのことを解説するために、もうちょっとこのアナ雪の世界について掘り下げてみよう。以降、かなりのネタバレになってしまうがご容赦を。

血と歴史の物語が語られる

もう一度、主人公たちについて、時系列にしたがって整理してみよう。

アナと姉のエルサは、アレンデールという国の王女として生まれた。

姉のエルサは触れたものを凍らせたり、雪や氷を作る魔法の力を持って生まれる。ところがエルサが8歳の時に、間違えて魔法をアナに当ててしまい、アナを意識不明の状態にしてしまう。トロールの力でアナは救われるが、エルサは自らの力を封じるために自ら城門の中に引きこもってしまう。

10年後、エルサ18歳、アナ15歳の時に両親が海難事故で亡くなり、摂政が政治をしながら3年後にエルサ21歳で成人。この戴冠式の時の物語が、前作『アナ雪』だ。

今回の物語では、さらにその背景の物語が語られる。

そこで鍵を握るのが『ノーサルドラ』という森の民族だ。

エルサとアナの祖父ルナード国王は、ノーサルドラ一族に外交を持ちかけ、友好のダムを建設する。そして、竣工のパーティでノーサルドラを騙し打ちしようとして、戦争になってしまう。この時の戦争で森の精霊達を怒らせ、ノーサルドラは34年間に渡って魔法の霧の中に閉じこめられてしまう(悪いのはアレンデールのルナード国王だと思うのだが、なぜノーサルドラ一族の方が閉じこめられてしまうのかはよく分からない)。

エルサとアナの父アグナル国王は、その祖父のだまし討ちに戸惑い、戦いに巻き込まれるうちに、瀕死の重症を負ってしまう。

そのアグナル国王を救ったのが、ノーサルドラの少女、そしてそれがのちのイドゥナ王女、つまりエルサとアナの母親なのだ。

両親は、エルサの魔法の秘密を解くため、アートハランに向かい、ダークシーで海難事故に遭ってしまっていた。

つまり、アナとエルサはアレンデール王室とノーサルドラ人の血を引く姉妹であり、エルサはそのために魔法を使える(といってもノーサルドラ人が魔法を使えるわけでないのだが……)ということなのだ。

最終的にエルサはアートハランに住み氷の女王として生きることになり、アナが戴冠しアレンデールの女王になることになる(その上にクリストフと結婚するから、山男のクリストフが王?)。

ノーサルドラにネイティブアメリカンを感じる人はいないのか?

ここで、描かれるノーサルドラとの戦い、いや侵略が気になった。

アナ雪は北欧っぽい世界が舞台として描かれる。ノーサルドラ人もノルウェイのサーミという民族をモデルとして描いているといわれている。実際に、サーミ人の音楽や衣装をモデルとするために、対価を支払ったというニュースも流れている。

サーミ人がモデルなのだと言い張れば、米国の問題ではないということになるのかもしれない。しかし、先住民とそれを騙し打ちする西欧文化という構図でいえば、アメリカインディアンと海を渡って来たアングロサクソンの構図そのものだ。劇中ではだまし討ちの割には対等な戦いが展開されているが、ルナード国王がだまし討ちを行ったのであれば虐殺になったことだろう。

つまり、その文脈でいえば、この物語の底流に流れているのは、アングロサクソンによる先住民の虐殺、ダムというテクノロジーによる原野の開発が描かれているように見える。

白人入植者がインディアンと争ったのは1622年から1890年の200年以上。たかだか百数十年前までその戦い(というか侵略)は続いていたし、今もインディアン居留地などの問題はあるのに、そのテーマが底流に流れる物語を描けるというアメリカという国が興味深い。

もちろん、虐殺者であり自然の破壊者であるルナード国王は否定的に描かれるし、最終的にダムというテクノロジーは壊され、魔法は解け、ノーサルドラ人との友情は復活する。謝罪と融和によって、問題は解決するのだが、先住民の方々の側としては、この描かれ方で納得なのだろうか? それとも、もうそんな問題も起こらないほどアメリカ先住民の問題は過去のものになってしまっているのだろうか?

物語の中では、ダムは壊され、濁流がアレンデールの城塞に向かって流れる。エルサの圧倒的な氷の魔法の力によって、アレンデールは濁流に飲まれることはない。しかし、テクノロジーの進化による自然のバランスの崩壊は、温暖化による海の水位の上昇による高潮、暴風雨の巨大化により人々の生活を濁流の中に飲み込もうとしているのではないだろうか?

アナ雪2はカリフォルニアで作られた映画である。底流に先住民に対する謝罪、温暖化問題に対する批判のメッセージが込められていてもおかしくないと思うのだが、あまり世間ではこの問題については語られていない。

前作アナ雪では、ホワイトウォッシュであるという批判があった。おそらくだからマティアス中尉は(アフリカ系の?)有色人種として描かれ、アナ雪2は先住民との融和の物語として描かれることになったのかもしれない。結果、エルサとアナは、アレンデール人とノーサルドラ人の血を引く(ビジュアル的にはそうは見えないが……)姉妹であるということになった。

このテーマは今後、アメリカではどう語られることになるのだろうか? 注意深く見守っていきたい。