まだ、好き好んで行く場所じゃないけど、映画産業も心配

久し振りに映画観てきた。このコラムも実に5カ月ぶりの掲載。実は、コロナのような伝染病をテーマにした『コンテイジョン』を自宅で観て書こうかと思ったのだが、書いてるうちに現実のコロナの状況がどんどん映画を追い越してしまい、何を書いても口寒い環境になってきたので、途中で筆を置いてしまったのだ。

今回は、久々に映画館がどんな感じかも含めて、レポートしたいと思う。

まずは、再開第1弾ともいえる『ランボー・ラストブラッド』を予約した。

近くのイオンシネマで見たのだが、まず予約する時から驚いた。予約できる席が前後左右に客が入らないようになっているので、市松模様なのだ。どうなん。これ。


調査を兼ねて見に行くからといって、私もリスクはなるべく下げたい。

というわけで、公開最初の週末を避けて、平日の夜に見に行ったのだが、そんな不安も吹っ飛ぶぐらい映画館はガラガラ。さらに、まぁ戒厳令下のように制限が厳しい。入り口には、エレベータの中から、券売機の前、そしてロビーへと何度も繰り返して厳しいルールが掲示されている。


中では常時マスクを使うこと。手洗い励行。そこら中に除菌用のアルコールが置いてある。売店のビニールカーテンはもちろん。ポップコーンを買うと、食べる時に使う用のビニール手袋まで渡される。

さらに、入り口ではサーモグラフィーで検温。


もちろん、筆者も感染は極力避けたいし、これらの処置はすべて正しいと思うが、ここまで厳しいと、座席に座るもの不安にある。ちなみに、映画が終わったら即手を洗って、着ていた服もすべて洗濯機に突込んだ。

つまりは処置はしっかりしているが、ここまでして映画を観なきゃいけないか? という話だ。平日に好きな映画を私のようなオッサンがこっそり見に来るというならまだしも、週末のデートとか、家族連れで見に来る……という雰囲気でない。なお、席は交互にしか使えないから、デートで来たって、間に一席のソーシャルディスタンスが取られるわけだが。


ちなみに、密を避けようと後ろの方の席を取ったら、みなさん考えることは同じようで、後ろの方の席で比較的密になってしまった。といっても観てるのは6〜7人というところだが。いずれも単身のオッサン。考えることは同じようで。

密になるのはいやだったので、場内が暗くなったあたりで、こっそり前の方の他の人との間に距離が取れる場所に引っ越した。

つまりはよほどのことがないと、まだ映画を観られる雰囲気じゃないってことだ。

ともあれ、観たのはランボー最新作。『ランボー・ラストブラッド』。

(以下、多少のネタバレを含みます)

『何なん! これ!』

結論から、いうと『何なん! これ!』という映画だった。

そもそも、シルベスタ・スタローンの映画はあんまりアタマがいい感じはしない。ランボーでは人を殺しまくるし、ロッキーでは最初負けて厳しい練習をして、あとでぶん殴って勝つ。だけど、最初のランボーもロッキーも、多くの人の琴線に触れるものがあった。それは、アメリカの底辺の苦悩みたいなもの。それこそ、愚直にがんばったけど報われない人、不幸な人の魂に触れる映画だったと思う。

が、しかし、今回のロッキーが戦う相手は、メキシコのギャング、人身売買組織だ。しかも(いきなりネタバレするけど……)肝心の娘は救出しそこない、怒りに狂ったランボーが殺しのテクニックを使いまくって、ギャングを壊滅……というのも生易しいぐらいの皆殺しにするという映画だ。なんで、こんなことになってしまったのだろう。

どこから話がおかしくなったのか?

ちょっとこの映画のルーツをたどってみよう。

最初のランボー(ちなみに、原題はFirst Bloodで、本作のLast Bloodはそれを受けたもの)は、いわば反戦映画だった。

ベトナム戦争のPTSD(当時この言葉はなかったが)に悩むランボーが主人公。地獄のような戦場で、戦友を失い、人を殺して、常に死と隣り合わせの状態をくぐり抜け、故郷に帰ってみるとそこは反戦運動まっただ中。故郷に暖かく迎え入れられるどころか、ヘイトを受け、職もなく、戦友を訪ねてみると化学兵器の後遺症で死んでしまっていた。

そんな中、地元のヤクザな保安官の高圧的な態度にフラッシュバックが起こり、留置場での乱暴な扱いでさらに重度のフラッシュバックが起こり、保安官全員をぶっ飛ばし、裏山にこもり戦闘モードに入り……というあらすじ。死ぬのは墜落したヘリの乗員1名だった。ともあれ、死線をかいくぐり帰ってみたら居場所もないという、ベトナム戦争の帰還兵を描いた心に残る傑作映画だったのだ。

しかし、2作目『ランボー・怒りの脱出(Rambo: First Blood Part II)』あたりから少し話が違ってくる。ベトナムに今なお捕えられたままの戦争捕虜を救出するという話なのだが、ソ連兵をバンバンブッ殺すようになる。もしかしたら、これがそれなりにヒットしたのが良くなかったのかもしれない。

3作目『ランボー・怒りのアフガン(Rambo III)』はさらにブーストがかかる。ルーツは反戦映画だったはずなのに、アフガニスタンでアメリカの国威称揚映画のごとくにソ連兵をバンバン殺しまくる。まぁ、強い男、マチズモの象徴なわけだから分からなくはないが、ルーツの反戦映画と全然違うことになってしまい、ファンも離れる。さらにこの時、ランボーがソ連兵と戦うために共闘するムジャヒディーン達は、いわば後のタリバンなワケで、ちょっとどうなのということになってしまう。

4作目『ランボー・最後の戦場(Rambo)』は、それらの政治的に難しいところを避けたかったのか、ミャンマーが舞台として選らばれ、軍事政権に虐げられる少数民族を助ける、そこに行ったNGOを救い出すという筋書きであるが、やはり政治的には微妙。さらに、ランボーはNGOを助けるためとはいえ、殺して殺して殺しまくる。どうなんだ。一体。

シリアルキラーランボー


で、本作である。政治的にデリケートな問題になるのを避けるためか、ランボーが戦う相手はメキシコの女性を攫って売るギャングである。しかも(ガッツリネタバレしてしまうが)ランボーが守るべき相手は、ランボーが助けに行って失敗したがために、犯されて傷付けられて、シャブ漬けにされて殺されてしまう。なんなんだランボー。

怒り狂ったランボーは、適地に乗り込んでギャングボス兄弟の弟の方の首を切り飛ばし、自分のアリゾナの農場にギャング団をおびき寄せる。農場の自分の作った地下壕に残虐な殺しかたをするワナを大量に作り、押し寄せるギャング団を、想像できる限り残虐に殺して殺して殺しまくる。まるでシリアルキラーランボーである。そして、最後のボス兄は四肢を弓矢で射止め、ナイフで心臓をえぐり出して「これがオレの苦しみだ!」と言う。いや、アンタが一番怖いわ。

一作目のメッセージ性はどこへ

娘の墓を横にアリゾナの農家の玄関ポーチに置いたロッキングチェアに傷ついた身体を横たえ、夕日を背にゆっくりと揺らしながらのラストシーンは、不遇だった彼の人生の晩年の唯一のホッとさせてくれるシーンではあるが、その前に残虐に殺しまくってて、ロッキングチェア揺らしてる場合じゃねーよ感がすごい。

もちろん、一作目からして、行き場のない気持ちを感じさせてくれる映画ではあった。ランボーの行き場はないし、ベトナム戦争で傷ついたアメリカはそれを癒す事なく、湾岸戦争、アフガニスタン、イラク、ISIL……と戦い続けるのだからまったく行き場はない。しかし、そこにあったはずのメッセージ性はどこへ行ってしまったのだ?

『マッチョなオジサンが活躍するアクション映画じゃないか』と言えばそうなのだが、ベトナム後の厭戦機運を描いた傑作だった1作目から、何がどうなったら5作目でこうなるのかと悲しくなってしまった。

もうちょっと今に即したテーマで、訴えるべきことはあったんじゃないか? それを訴える力はシルベスタ・スタローンにはなかったのかと思うと、やっぱり残念なのである。