「ふたつで十分ですよ」
『No Four. Two,Two,Four.』
と、ハリソン・フォードが言ってから35年。我々はあのブレードランナーで描かれた2019年まで、あと2年というところに来た。

幸いなことに2017年になってさえ、環境破壊で世界は破滅してはおらず、タイレル社は人間に刃向かうNEXUS 6を作ってはおらず(Google社は作ったけど)、クルマが空を飛んだりはしていない代わりに、我々は35年前と変わらず、ガンダムを見て、ゴジラを見て、スターウォーズを見てるという恐ろしい未来に直面している。

そして、そのラインナップに、遂に『ブレードランナー』も加わるというワケだ。

(以下、多少のネタバレを含みます)

アメリカでの興業成績は予想を下回ったそうだが、そんな評価が重要なのか?

歴史に残る大傑作の続編を作るというのは難しい行為だ。たとえ、前作の監督であるリドリー・スコットが製作総指揮という肩書きで名を連ねていたとしても、前作のファンは、たいてい続編に対して手厳しいものだ。

増してや、「アメリカでの興行成績は予想を下回る」などというニュースが入ると、リドリー・スコットでさえ、前作を超えることはできないのか……と不安になってしまう。

しかし、そもそも前作も公開時はヒット作とはいえないものだった。陰鬱な未来という世界観は、当初理解されず、熟考と解釈が必要なストーリーが理解されるには時間がかかった。

ご存じのように『ブレードランナー』の原作はPKディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』。ディックも大成功した作家ではなく、生涯、ペーパーバックに安い原稿料で小説を書く作家として過ごした。『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』『カウンター・クロック・ワールド』『ユービック』『ヴァリス』『流れよ我が涙、と警官は言った』など、傑作をたくさん書いているが、高く評価されるようになったのは死後のことである。

PKディックは、’82年の3月、ブレードランナーの公開の3カ月ほど前に53歳で脳梗塞で亡くなっている。

公開後数日の興行成績で作品を評価する必要はまったくない。誰がつまらないと言っても、あなたが面白ければ、それでいいのである。

前作『ブレードランナー』は、何を我々に突きつけたのか?

『ブレードランナー』といえば、そのディストピア的未来感のインパクトが強烈だった。

環境は破壊し尽くされ、いつも酸性雨が降りしきり、多民族が入り交じり、壊れかかったネオンサインで彩られたゴミ溜めのような世界。いにしえの香港の九龍城にテクノロジーが加わったような世界を、最初に我々に提示したのは『ブレードランナー』だった。それは衝撃的だった。

未来は、清潔で、きらびやかで、便利で、ソフィスティケートされているハズのものだった。そうじゃない『ディストピア的未来』を最初に提示したのが『ブレードランナー』だった。

たぶん、この世界観の影響を受けた作品は数多い。いまや古典的傑作となった『AKIRA』や『攻殻機動隊』、『マトリックス』の世界観だって『ブレードランナー』なしにはあり得なかっただろう。

アジア的猥雑さはリドリー・スコットが新宿歌舞伎町を訪れた時にそのヒントを得たというが、むしろ我々現代の日本人にとっては香港の九龍のイメージに近いのではないだろうか? 冒頭の『ふたつで十分ですよ』のくだりに出てくる謎めいた食べ物だって、香港の屋台でならあり得そうな気がする。

『ディストピア的未来感』と共に、『ブレードランナー』が我々に与えたもうひとつのインパクトはテーマの深さだった。同作がSFというカタチを取って我々に突きつけた根源的問いは『人間性とは何か?』というものだ。

ルトガー・ハウアーが怪演するロイ、ショーン・ヤング演じるレイチェル(美しかった!)たちレプリカントは、人間を超える能力を持ちつつ、人間を凌駕してしまわないように『4年』という寿命が与えられていた。

レプリカントを『処分』する仕事に就いており、レプリカントであるレイチェルとの恋に落ちたハリソン・フォード演じるデッカードにとって、『レプリカントを『処分』するころ』、『人間であるハズの自分が生きること』、『レプリカントと恋すること(当然彼女の生を望む)』が矛盾していき、深いドラマ性が生まれている。

さらに、『実はデッカードもレプリカントであった』という解釈もあり、当然ながら最後には『では視聴者たる私は、レプリカントではなくVKテストを通過する人間なのか?』という問いに到達する。

レプリカントは恋人の夢を見るのか?

つい、前作の話に熱が入って長くなってしまったが、今回の『ブレードランナー2049』は、前作『ブレードランナー』の30年後を描く作品として作られている。

少しネタバレしてしまうが、本作のメインテーマは『レプリカントの生殖』だ。ライアン・ゴズリング演じる主人公K(もしくはジョーと言うべきか?)は最初からレプリカントであることが分かっている。しかし彼の前に現れるのは、脱走したレプリカントの一群の生き残りの住居の庭に埋められた女性型レプリカントに出産した形跡があったという事実だった。

繁殖できるレプリカントがいるということは、レプリカントにとって希望であり、人類にとっては駆逐される側となる滅亡への序曲である。さらに、この30年前に生まれた『レプリカントから生まれた、レプリカント』という、つまりはおそらく、デッカードとレイチェルの子が、K自身ではないかという可能性が浮き上がってくる。

レプリカントは新たな『種』なのか? Kはレプリカントなのか? ……次々と浮き上がってくる謎の答えを求めて、Kはデッカードが隠れ潜むラスベガスの廃虚へと向かう。

新たなテーマ『AI人格』との愛

さらに、新たなモチーフが登場している。

バーチャルなAIパートナーのジョイだ。AIパートナーという表現が正しいかどうかはよく分からないが、ジョイはホログラムとして登場するコンピュータ上の女性人格で、帰宅してからのKの話し相手となっている。どうやらネット上に人格があるらしく、Kが買ってきたエマネーターというデバイスを使うと、ネット上から人格をダウンロードして、モバイルでも使えるようになるらしい。レプリカントと同じく、ウォレス社の製品。

前作のデッカード(人か、レプリカントかは語られていない)はレプリカントに恋するが、2049のKはAI人格に恋をする。知的で、主人に対して忠実で、セクシー。スペイン系らしい茶色い頭髪と目、ぽってりとした唇は大変に魅力的だが、性的な機能は持たないらしい。人間(ではなく、実はレプリカントだが)のマリエッティの身体を借りて、レプリカントとセックスをするのだから、話はさらに複雑だ。

『人間性とは何か?』。Kは? デッカードは? レイチェルは? 人間ではなかったのか? レプリカントだったのか? 子を為したデッカードとレイチェルの間にあったのは愛だったといえるだろう。では、電脳空間にのみ存在したジョイと、レプリカントたるKの間にあった感情は愛ではなかったのだろうか?

悲観的で、退廃的な未来都市の汚くも美しい光景の中で、いくつもの謎が解き明かされ、さらにそれを超える数の謎が浮かび上がってくる。

『ブレードランナー2049』は『ブレードランナー』のファンの期待にしっかりと応える傑作だ。少なくとも、私にとっては非常に楽しめる作品だった。あなたにとってはどうだったろうか?